言葉は消せる
言葉は消せる。
消しゴムで
インク消しで
デリートキーで
そんな谷川俊太郎さんの詩がありますね。
どうも深居優治です。
ブログを書きたいと思ったのではじめてみましたので、ご報告です。
何故、ブログを書きたいと思ったのか。まず、元々言葉をダラっと垂れ流す癖がついてからもう10年以上経つわけですが、それをツイッターで書くことで色々な浄化、というか、供養をしてきたわけです。
しかしそれを自分の目で見て思い返す為には紙媒体のものに書くのが一番良い。けれど、紙とペンに書いても人に見せるのには2度3度手間が掛かる。ならばとツイートしたところで流れてしまえば見えなくなる、遡るにはパソコンが必要。
というわけでブログでも書こうかと思った所存でございます。
ブログなら好きな人が好きな時に好きなように見れるだろうし、私も見返すことができる。それが怖さでもあるのだけれどね。
言葉は消せる。
けれど声に出した言葉は消せない。そんな谷川俊太郎さんの詩を思い返す。
例えばここにブログとして言葉を載せるとする。その言葉は、ネット上を漂うことになる。検索をかければ、或いは関連する言葉に引き寄せられてここに行き着くことは可能だ。しかし、完全に消去してしまえばどこにも残らない。ネットがいつしか消滅してしまえば、このブログ、ひいては私の存在を知る人すら存在しない。
そういうものなのだと思う。
しかし声に出した言葉は消せない。空気中をいつまでも漂っている。
そうしていると世界は言葉で満ち溢れてしまう。満たされていると、その次が入ってこない。それは思いも言葉も同じ。
と或る容れ物があって、我々はそこにありとあらゆるものを詰め込んでゆくのです。大なり小なり、固形であろうが液体であろうが、そこに詰め込むわけです。
しかし、容積は決まっているわけですから、それらが溢れ出してしまうのです。そう、溢れ出して、順々に新しいものに入れ替わってしまうのです。だから私は私のことも、あなたのこともいつか忘れてしまうと思うのです。その忘れるということにも気付けないうちに。
満たされていたいと思う気持ちがあれば良いのです。
しかし、その思いは空っぽの中にのみ存在し得るのです。
私達が死に絶えて、存在を証明する他人が居なくなった時に、また会いたいですね。
そう、このブログはこんなブログです。
登録してくださると、きっと夜中に深居優治に会えますよ。