アオノコキュウキ

言葉を綴ります。あしからず。

日々は小さな箱の中に

 

 

 

やぁ

 

5月は五月雨

たくさん降る雨のせいで

月が見えない日が多いことから

月不見月とも呼ぶらしいね

雨が全てを隠してくれたら良いのに

それでも空に月が、星が、闇が

お前はまだかと追い詰めてくるようで

昨日も今日も、そして明日も

代わり映えしない日々が過ぎ去ってゆく

 

皆さんいかがお過ごし?

 

 

 

 

 

 

 

 

例えば今急に私の精神が、肉体が、命が

消滅してしまったとしたら

 

そんな問い掛けを、おおよそ

教室に不審者が入って来たらどうする

という想像よりも多く考えたことが

ある人の方が多いと思う

 

死んだらどうする

というやつね

 

 

 

 

最近

人は死んだらどうなるか

ということを宗教や民族別に分けて書いてある本を読んだ。

とても面白い

死んだら地獄や天国や生まれ変わりだけじゃなく

隣の島や、裏の世界

はたまた、最初から居なかったことにされることもあるのだとか

生きるは無数に

しかし、死は平等に一つ

というわけにはいかないようです

死が普遍であることは理想論?

よくはわからないけれど

大丈夫

私もあなたもいずれ死ぬ

 

 

 

 

 

 

何故死について話しているか

簡潔に言うと

 

人間誰しも必ず死ぬのに

私、死について知らなさ過ぎる

ということをふと思って

本屋さんで死についての本を買い漁った

誰かが死について論じ

死についての情報を集めてくれているものが、たった数百円で買えるというのは、なんとも不可思議

けど、それでいいのよ

なんともなく

ただ、情報に価値を見出すことが出来る人が居るのかどうか

はたまた

その一見チープなものをどこまで有意義に扱えるか

人間って馬鹿みたいで、賢くて

何者だお前は

 

 

 

 

ねぇ、死んだらどうなるか

でもね、こう、買い漁った本の中に

まぁまだ読んでいないものももちろんあるのだけれど

もちろん『深居優治が死んだらどうなるか』を書いてある本はなかった

当たり前だけれど

だからこそ悲しいし、虚しい

深居優治を暮らしていくしかないのよね

 

 

それでね、何から話そうか

 

私が今ここでもしも死んだら

私にまつわる情報は、一体どのようにして他人に伝わるのだろう

 

親族とあまり良い関係を築けていない深居優治は、おそらく

身内の誰かが気を遣ってSNSや音楽関係者、過去の友人知人に訃報を伝える

なんてことは無いと断言出来る。

 

故に、深居優治がこの状況から

何かしら話題に上がるようになるのは、おそらくコロナ収束後

 

ライブ予定の日に連絡が付かず

それを不審に思った誰かが調べるときに初めて発覚するのだと思う

だからあと1ヶ月半は誰も知らずに過ごすのだろう

 

 

 

 

また、音楽関係者

全国の深居優治を知っている人が

その訃報を、全員が知ることは無い

人伝に、あぁ、あの人死んだみたいよ

という噂が広まるのが早いか

それとも、存在そのものを忘れ去られるのが早いか

そのレースなら、後者が圧勝するような気がする

それほどまでに人の存在は案外

人の人生にとって深く関わっていないのだ。

 

なんだか虚しい

 

 

 

 

 

 

とりあえず、死ぬ前に

誰か信頼できる人に楽器や機材は譲ろうと思う

好きにしてくれたらいい

売ってもいいし、使ってもいいし

捨ててもいい

 

ものはいつか朽ち果て消えていくから

それが消える頃までその人が憶えていてくれたら良いのになぁと

そんなことを考えながら

人との繋がりの脆さについて考える

 

 

 

 

 

 

人をあんまり信用していない

 

というと、穏やかではなくなってしまうし、どこかトゲがある。

 

信用していない

ということと

関わりたく無い

というのはイコールではないので

勘違いさせたくは無いし

 

『信用していない』

という言葉の中に『一切信用してない』という意味は含まれていたり、含まれていなかったりする

そう、人の心は曖昧で矛盾していて不潔で不純でそれでいて愛しいもので

 

例えば、〜しようぜ、〜の約束な

というようなものを一切許容できないかというとそうではないし、なんならそういうのをしたい時もある

けれど、心の底の方にある、基本的に他人には明け渡さない部分については、基本的には誰にも触れて欲しく無いのだ

そして、その誰にも触れて欲しくない部分を基準に物事を考える瞬間があり、そのときに『誰も信用してないおじさん』が強情を張るのだ

けれど、そのおじさん

愛した人には途端にその鍵を、扉を開け放ち、しっかり招き入れた後で

お茶さえも出してしまうことがある

その上で

誰も信用してない感も出してくるのだ

 

もう、パラドックスの渋滞よ

 

でも人間ってそんなもんさ

小さな箱の中に人間を入れて

この人間の本質を言い当てなさい

なんて言われてもだいたい無理よ

差し詰め

『矛盾』とでも答えれば如何にも適当である。

 

 

閑話休題

 

人と人との繋がりの話

私は基本的に人が好きなのだと思う

けれど、考え過ぎてしまう夜には

他人のことを一切合切

排除してしまいたくなる

それなのに人恋しい

誰か構ってくれないか

誰か触れてくれないか

誰か急に連絡をしてきて

電話なんてしてきて

朝陽が登るまで

なんの生産性もない話をひとしきりした後で

じゃあまた今度

飲みにでもいこうよって

そんな言葉をかけてくれる

素敵な女の子が居れば

私はたちまちその子のことが気になってしまうだろう

 

けれど、それもまた

その段階の中で『この人と朝まで電話していたい』と思える相手からの電話ではない限り

そのプロセスは踏まれないこととなる

 

 

結局私達は

自分たちが関わりたいかどうか

その人とどんな関係でありたいか

という部分を意識的にであれ無意識的にであれ

選別しているということはもう

自明の理である

 

だからね、ほんとはね

『死んだらどうなら』という問答にすら

その人それぞれのおおよその答えが出ている

この人に心配されたいこの人に忘れられないで欲しいこの人達には悲しまれない

 

そんなのを決め付けてしまうのは酷く悲しいことのように思うのだけれど

まぁ、だいたいそんなもん

 

 

 

けれど、その

安全牌のような予想を裏切ることが、時たま起こる

 

全然予想とは違うことが起こる

全然予想とは違う人と繋がる人生もあって

結局振り返ってみると自分のこれまでは

自分の意図しない方向にばかり転がって来ているのである。

 

 

 

 

小さな箱の中に自分を閉じ込めても

その箱を開けてみないことには

その中の自分が生きているのか死んでいるのか

これからどうなるのか

本当はどんな姿なのか

全くの五分五分

 

わからないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さな箱の中に閉じ込められて

もうすぐ一ヶ月

その箱から出たときに

世界は、自分は、あなたは、

どうなっているのだろうね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は早く、あなたに逢いたい。