アオノコキュウキ

言葉を綴ります。あしからず。

言語化を控えない

 

知っていることと知らないことを天秤にかけて

得意気になる人が居るだろうか

『私はほら、人よりも知っているから』と

他人を見下ろすことでしか優越を得られない人が居て

けれど、知っていることと知らないことを比べて

あなたは一体、どうやって答えを出すことができる???

 

少なくとも

『すべて』

と書かれたあなたの人生を記した本が世界のどこかにあるとして

その本の中に書いてあることの

ほとんどをあなたは知らないのではないだろうか

いや、これは過言で

私はそもそも私以上にあなたのことを知らないのだった

私は私の世界のことを知らなさすぎる

生きていることも

死んでゆくことも

空の碧さも

海の蒼さも

愛の形も

君の優しさも

おもいだせないのー

おしえてほしいのー

 

 

 

 

 

閑話休題

 

 

夜の海に落ちたことはあるだろうか

或いは、宇宙空間に放り出されたことは?

目も耳も潰れて

街を彷徨ったことは?

 

 

ありもしない空想だと読み下した人が多いだろうか

だからこれはあくまで空想のその先

 

きっと、それは恐ろしいことで

自分が今どこに居て

どこを向いているのか

それら一切がわからなくなる状態では

きっと、きっとだよ

まるで自分が居ないような

そんな恐怖に取り込まれてしまうのだろう

 

だから人は目に見えるものに縋るし

他人を見上げたり、見下げたりしながら

自分という存在の現在地を常に探しているのだろう

あんなに上手くいっていたのに墜落

そもそもうまくいかないから地べたを這う

地に足がつかないのが生活のサイクル

その、誰かにとっての当たり前が崩れてしまった瞬間には

その誰かは壊れてしまうのかもしれない

 

本当は誰でもいいのよ

自分が誰であろうと

どこから来てどこへ行こうと

『同じ夢の中に居られるならそれが悪夢でも構わない』

そんな風にして

何かしら、自分を律することの出来る物差しを

見つけていくことがおおよそ

人間が死に向かうまでの道筋で事切れてしまわないようにする手段ではないか

 

 

幸福について

私はいつまでも懐疑的で

本当はそんなものどこにも無いような

気持ちにさえなる

 

大昔、人が言語さえまともに扱えなかったころ

様々な概念や感覚、常識や

共同幻想は、賢い誰かが作ったのではないかと思っている

その誰かは他人を、もしかしたら

ただの労働力としてしか

見ていなかったのかもしれない

するとどうだろう

現実として、人はいずれ死ぬ

個体差があり、得手不得手がある以上

同じように努力をしても

その結果には差違が生まれてしまう

その上で不平不満が出ないようにするにはどうするべきか

 

 

 

 

『幸せというものがあってね、人間は生まれながらにして、この幸せというものをいつか掴む為に生きているのだよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人間は厳禁なもので、何かをする際に

最初は良くても、長く続けることで

ご褒美が欲しくなる

しかも、それが同じご褒美では満足できなくなる

幸せってものがあってね

それに向かって頑張れば良いことがあるよ

って刷り込まれてしまう

 

けれど、それは賢い人間が作り上げた幻想

『無いんです、世界のどこにもそんなものは』

 

 

するとどうだろう

それを目指して生きていた

それを求めて生きていた

それまで頑張っていた

それが無いとわかった瞬間に

人は壊れてしまうのかもしれない

 

だから、人は心が壊れない方法として

自分を騙すことにした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そうか、生きていることそのものが幸せなんだ

そうか、この人を愛することが幸せなんだ

そうか、生き甲斐を見つけることが幸せなんだ

そうか、家庭を持ち、誰かと生きていくことが幸せなんだ

そうか、そうか、そうか

幸せというものは気付かなかっただけで

ずっとそばにあったのか

 

 

 

 

 

 

 

 

そうして幸福の青い鳥は手のひらからするりすり抜けて

遠くへ飛び立ってしまいました

 

 

となるのが物語

 

現実世界でその"幸せ"へのすり替えが成功すれば

その人はきっと幸せで

だから幸せとはなんですか?

という問い掛けが一つにまとまらないのだ

 

 

 

 

と、まぁここまで全てが私の妄言で

それをどう捉えるかは

その人にしかわからない

私は、私の世界において

幸せなんてものはないと思ってしまった

だから、私はもうすり替えが出来ないのです。

 

 

 

言語化を控えない人は好きです。

けれど、言語化してはいけないこと

言語化してはいけない時と場合

というのは勿論あると思っていて

だから私は、こうして言葉にすることは

最も恥ずべき悪徳だとさえ思う

 

 

私の言葉を綺麗だと言ってくれる人が稀に居て

それは嬉しいことだけれど

丁寧に塗り固められた壁や、丁寧に舗装されたコンクリートの道の裏側に

本当は何が隠されているのか

それを知っても綺麗だと言うのか

 

私にはわからないけれど

もっといびつで、よごれていて、ふれると

こわれてしまいそうなもののほうが

あんがいきれいなのかもしれないよ