それは深海だった。
どこも痛くない。
どこにも居たくない。
言葉はどんな感触だろう。
触ってみても、嗅いでみても、食べてみても、私には見当がつきません。
母音と子音と音節と何やかんや。
合わせて煮詰めて思いを混ぜて、私は言葉で人を殴るし、人を抱きしめていたい。
それが思ったまま伝われば良いのだけれど、難しい。
私の使うありがとうも愛してるも、違う意味で伝わるかもしれない。
何を信じれば良いだろうか。
今日はライブでした。
今、中国地方5カ所を回るジャンピングハイヤーツアーというものに参加していて、深居優治は広島代表らしい。
代表やリーダーや、その組織のトップや重役になるということはこの人生で多かったのだけれど、果たして名実ともに正しい選出をされて自分がそこに居るのかというとそうではないと思ってしまう瞬間が多かった。
名ばかりの代表。
しかし、名さえ与えられないものよりは上等であろう。私は私を見誤りたくないのだ。
5会場を回る中で、今日はどうしても他の代表のようにアコギ一本歌1つで競い合ってみたかった。
結果は見た人にしかわからず、見たものの数だけあるのだが、こんな日を作ってよかった。
アパテイアの深海
この曲は私が21歳頃に書いたもので、詳しい説明はまたどこかで明記したいのだが、今でも大切にしている曲。
強い思いを持ってこの世に生み出された私の一部なのだ。
その公園は未だ、私達にとっては深海なのだと信じていた。
けれどそれは確かに公園で、昼間そこで子どもたちが走り回って、草野球をしたりもする。
深海では子どもたちだけが誠実だったのかもしれない。いや、或いは彼らは小魚で、いつか来るやも知れぬ大魚を退くため、スイミーよろしくのハッタリをかますためにそこに集結していたのかもしれないし、本当はそこには誰も居ないのかもしれない。
目に見えるものだけを追い過ぎると、人は簡単に死んでしまうのだとか。
私は目に見えないところにあるものや、感覚、思いが繋ぐものこそを信じたい。
信じたいと思える自分の感性が、嘘ではないと信じたい。
私は私を裏切らないように生きたい。
そして相対温度
19歳の頃の曲だ。
未だ色褪せない、私の根底にある感覚を元に作られた曲。
私達ってば、一人じゃ自分の色も形も存在ですら確かめることができないでやんの。
あなたの手に触れていないと、わたしはわたしの手が本当に存在しているのかどうかさえわからない。
曖昧さと思い込みの力で、また今日は今日として成立し、過去になった。
ぴーん。
変わらないものは変わらないし
変わってゆくものも確かにあって
でもその狭間で、私は私で在り続けるのだそうな。
でもその苦しみにも終わりが来るよ。
無限のように感じるその苦しみにも。
さよならの時が来たら僕ら、一緒に海を見よう。