アオノコキュウキ

言葉を綴ります。あしからず。

重心

生きていると平衡感覚が問われる

今どこを向いているのか

どこに力を加えるべきなのか

進むのは右足からなのか

それとも左足からなのか

最初のうちは良いのだけれど

次第に慣れたり、波風を立てられたり

平気で落っこちたり

だからそう

急に、それこそ

夜の海に落ちたみたいな気持ちになることがある。

今向いているのが

上なのか、下なのか

右なのか、左なのか

そもそもそんな概念はいつからあったのか

 

 

 

 

 

 

最近、最初に考案した人すごいなって思うことが多い

なんでそうなったのかはわからないのだけれど

 

例えば時間

1日という単位はギリわかる

朝日とか夕暮れとか、目印になるものがあるからわかる

一区切りだなってアレ

 

けど、1時間とか

1分とか

特に1秒

どこから出てきたお前

何を基準に1秒という単位が出てきて

それを1秒って区分にしたんだろう

最初に考案した人やばい

 

 

 

そういう感じで

電子レンジ最初に考案した人すげぇなぁとか

数字で

0を最初に作ろうとした人すごいなぁとか

そういう、日々の中にある様々なものには生じる前と後があって

だから私達の生活の中に、日々の中に、始まりと終わりとその他複数の感覚が染み付いていて

それにそっと目を向けると

そこには人間の、或いはそれ以外の生き物のこれまでの営みが見え隠れする

私は不意に

とても小さな存在であるということに気付く

 

お前こそ誰だよって

誰かに言われてしまったような気持ち

 

 

 

 

 

 

平衡感覚

 

重心はいつもどこにあるだろう

 

それは物質的でもあり、感覚的でもあり

もちろん精神的でもある

何に重きを置くか、だ

 

 

ライブによく来てくれる人たち

日々の話をすることはあまりないのだけれど

中には話をしてくれる人がいる

普段は抑圧された生活をしていたり

病院に通っていたら

部屋から出られなかったり

けれど、その先にライブがあるから生きていられる

 

そう言ってくれた人たち

嬉しいとは別の感情が

嬉しいにくっついて私の中でぐるぐる回っている

 

私の音楽が救いや、感覚を麻痺させる役目や、繋ぎならば

それで救われた人たちは

果たして本当に救われたのだろうか

 

ライブに来なくなった人たち

消えてしまったのか

それとも、飽いたのか

それとも、私の音楽が必要なくなるくらい、日々が充実し始めたのか

 

遂にはわからない

 

 

重心

ライブに行くことに対して

心の重心を向けている人は

決してそうではない人間たちと分かり合えないことがある

家族というものに重心があり、互いに求め合うように円満な回転を生む人たちは

その末端にある、家族というものが重心に無い人たちを、ひたすらに振り回してしまっていることもある

 

仕事だけが生活の重心にある人に

明日から働かなくても良い

働かなくてもお金はあげる

生活は保証される、と伝えたとして

その人が発狂しない保証は??

 

恋人にだけ心の重心を向けていた人が

それを失った時

一体彼は、どこに落ちてしまうというのでしょうか。

 

 

私たちはいつも、どこかに向かって寄り掛かっていて、いつでもその方向に、或いは別の方向に、落ちたり、引っ張られたりしてしまうのです。

 

誰かと同じ重心で、言葉を交わせること、心を触れ合わせられること、知らない記憶を渡し合うこと、それはもう、幸せの類ではないかしら。

久しく無いですね。

 

私はどこに落ちてゆく?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひゅーすとん

 

 

 

これまで、音楽に重心を置いていたような気持ちでずっと生きていましたが

きっとそれは勘違いで

音楽はその、核となるものに寄り添っていてくれたのだと思いました。

何故なら私の音楽にはいつでも、私以外の生き物の匂いが、温度が、確かに在ったのです。

 

 

故にその音楽が、私から少しだけ離れてしまうことだって十二分に考えられるはずだったのに、人間とは愚かで浅ましくて傲慢ですね。

自分のことすら何一つ分かっていないくせに、他人を分かろうとしたり、分かった気になったり、管理しようとしたり。

 

 

 

 

重心

 

私の重心は私にはわからない場所で、けれど、私にしかわからない速度で、私を振り回していきます。

そして、いつかその遠心の果てに

誰かと出会った時に

誰かがほんの少しでもそれに気付いてくれたならいいな。

私はもう居ないかも知らないけれど。

 

 

 

 

 

 

明日は福岡での最後のライブです。

 

東京大阪と活動休止前企画を経て

私は何者かになれないことがわかって

それでも、何者かになりたいと願い追い求める姿にこそ、私は私を隠しているのではないかとさえ思うのです。

どうか、どうか、私という存在が、誰かの重心に触れていないとしても、その回転の中の一つの柄として色としてあなたを作る一つとして呼吸していられたら良いのに、ね。

 

 

 

 

 

ひゅーすとん

 

 

べちゃ