アオノコキュウキ

言葉を綴ります。あしからず。

遠くの街で思う事

私は私を抜け出したい

出来れば私以外の何かになりたい。

今ある事象から、すっかり抜け落ちて

遠くへ、遠くへ行ってしまいたい。

 

 

 

 

ある時からそんな感覚が続いている。

20年は前から続く話。

そんな歌から始まった深居優治というモノの物語。

数学的に考えれば、全体からある部分を引く事で、残りの値を求める事ができる。

世界から私をごっそり引き出してしまえば、残るのは私以外のすべてのこと。

それらを全部知ったあとでまた、世界から私以外を引けば、nと定めた自分の値が、つまりは私の事が分かるはずだ、と。

そんな風に世界を見る事が多いのです。

 私は私の事を知らなさ過ぎる。

知らないから怖い、よくわからないから大切に思えない。

すべてを知る事が出来れば愛せるかなって。

 

そんな世界への投げ掛けをする中で、遠くへ逃げようとするのです。

しかしながら、この容れ物を与えられた瞬間から私は私であって、それらが消えてゆくまでの消費期限の中、どれだけ逃げても私はやっぱり私だし、世界もやっぱり世界なのだ。

 

だからもう少し私の話をしよう。

 

6月21日に誕生日を迎えました。

歳の割に、というか、いい歳してという方が正しいのだろうか。未だに雨の止まない世界で、私になる旅を続けております。未だに私は私では無いらしい。それでも私は私にしかなれないらしい。

一般的な、大人のようになれば、それらのよく口にする『幸せ』という共通であり差異のあるものを知り、求める事ができたのだろうかと考える。

けれど、私にはよくわからない。

私が見た世界で、それらはくぐもったまま、ただ、燻っている。

 

 

 

東京は雨です。

阿佐ヶ谷という土地で人に助けられ、今はまたコインランドリーに居ます。

精神と時の間のような、そんな重いとも軽いとも言えぬような空気をまとっているのがコインランドリー。私にとって自分を見つめ、見定め、改変する場所。

 

 

関東遠征、初日でiPhoneが壊れ、2日目にして買っていただいたばかりのキャリーが壊れました。良くないことは続くもので、今後もそういった事が続くのであれば、もしかしたらどこかでひょっこり身体や心や、はたまた命が壊れてしまう事もあるやも知れぬということで、ひっそりと心の準備はしておこうと思います。

形の無いものも形の有るものも、壊れてしまうのです。

形の有るものは直せるのかな、形の無いものは治せないのかな、どちらがどうだろうか。

 

 

人が生きている街。

人が死んでいる街。

長く、様々な地を旅していると(と言えるほど沢山の場所を回ったわけでは無いが)その土地土地の人や空気、文化の違いについて敏感になる。

ここの人達はこういう傾向にある、ここの空気はこういう流れ方をする、文化を作るのは人だが、もしかしたら、その土地の温度や湿度、寒暖差によって生み出されるのかもしれない。雨が多く降る土地の人と、乾燥地帯に住む人が同じように生きられないのと同じで、やはり、私は広島の人間なのだなぁと感じる事もあります。けれど、だからと言って広島の地が私に適しているとは言い難い。私は、どこに居るのでしょう。私はどこに還ればよいのでしょう。

あなたはどこに居るのでしょう。

どこから生じて、どこへ消えていくのでしょう。

私はあなたになりたかった。